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ジャパンヴィンテージ家具の物語 ── 仙台の小さな研究所から、旭川の工房まで

ジャパンヴィンテージ家具 全3回戦後の日本で、北欧家具に学びながら、日本の部屋と日本人の体に合わせてつくり直された木の家具。それがジャパンヴィンテージ家具です。第1回 良さと選び方
第2回 物語(このページ)
第3回 名作とメーカー

いま中古で出会う日本の木の家具の多くは、1950年代から70年代に生まれました。けれど、その物語はもう少し前、1928年の仙台から始まります。

ドイツから来た建築家、木の飛行機、米軍の家族のための家具、団地の小さな台所。戦後の日本が、自分たちの暮らしを一からつくり直していった道のりを、6つの場面でたどります。

目次

  1. 仙台の小さな研究所
  2. 弾薬箱から、米軍の家族の家具へ
  3. 8平方メートルの台所
  4. 民藝という、もうひとつの道
  5. ブナの森と曲木
  6. ドイツで見た、北海道の木
  7. おわりに

読む時間の目安:約10分

1928〜1936仙台の小さな研究所

日本の近代家具の物語は、意外な場所から始まります。1928年、宮城県仙台市に、国の研究機関「工芸指導所」がつくられました。東北の木や漆といった資源を活かし、日本の工芸を近代の産業に育てることが目的でした。

1932年、ここに一人の若者が入所します。のちに「ジャパニーズ・モダン」を築くことになる剣持勇です。のちにスポークチェアをデザインする豊口克平も、この研究所で働きました。

ドイツの建築家がやってきた

1933年5月、ナチスの台頭するドイツを離れた建築家ブルーノ・タウトが来日します。その年の11月、タウトは仙台に招かれ、翌1934年3月まで工芸指導所で指導にあたりました。

実はタウトは、仙台に来る少し前の1933年9月、東京・三越で開かれた工芸指導所の展覧会を見て、厳しく批判していました。見た目だけを西洋風にした工芸品が多かったからだと言われます。その厳しい客が、2か月後には先生としてやってきたのです。研究所の人たちは、さぞ緊張したことでしょう。

タウトのやり方は徹底していました。実物や資料を集めて研究し、デザインし、原寸のモデルをつくる。そして、そのたびにやり直す。最後は「外の人の目で審査しなさい」と言いました。目指したのは、日本の工芸のお手本になる「規範原型」です。若い剣持勇らは、タウトのもとで、日本人の体に合う木の椅子をテスト用の椅子で何度も確かめました。

タウトはその後、群馬県高崎で工芸の指導を続け、1936年に日本を離れました。滞在はわずか3年あまりでしたが、「本物をつくるまで、何度でもやり直す」という姿勢は、剣持勇たちを通して、戦後の日本の家具づくりに受け継がれていきます。

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1940〜1950年代弾薬箱から、米軍の家族の家具へ

1940年、山形県天童で、のちの天童木工が生まれます。最初は木工職人たちの組合で、戦時中は弾薬箱などをつくっていました。

このころ、天童の工場には意外な人が訪れています。戦争の末期、金属が足りなくなった日本では、木で飛行機をつくる研究が進められていました。1944年、その研究をしていた剣持勇が、部品づくりの相談で天童の工場にやってきたのです。薄い板を重ねて曲げるこの技術は、戦後、椅子の座面や背もたれに生まれ変わることになります。

終戦後の1945年、天童の職人たちは家具づくりに切り替えます。そして1947年、天童木工は日本の民間企業で初めて、高周波で木を温めて形をつくる装置を入れ、成形合板の家具を実用化しました。

アメリカの家族のための家具

同じころ、日本の家具づくりを大きく動かす注文が入ります。占領軍の家族が住む住宅「デペンデントハウス」の家具です。

1946年4月、GHQの指令を受けた工芸指導所が、その家具の設計と生産の指導にあたりました。1戸につき30点ほどの家具が設計され、全国のおよそ300の家具メーカーが製作に動員されたと記録されています。東京・代々木のワシントンハイツは、その代表的な住宅地です。

ベッド、ソファ、ダイニングセット、チェスト。日本の職人たちは、それまでほとんどつくったことのない、アメリカの暮らしの家具を、決められた基準と納期でつくりました。この経験が、戦争中の仕事から平和な家具づくりへ移る足がかりになり、日本の洋家具の技術を一気に引き上げたと言われています。

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1955〜1960年代8平方メートルの台所

戦後しばらく、日本の多くの家では、畳の上にちゃぶ台を出して食事をし、片付けてから布団を敷いて寝ていました。

この暮らしを変えたのが、1955年に設立された日本住宅公団の団地です。公団は、台所と食事の場所を一つにした「ダイニングキッチン(DK)」を取り入れ、2部屋とDKの「2DK」が標準の間取りになりました。DKにテーブルを置いて、椅子に座って食事をする。今では当たり前の光景が、ここから全国に広がっていきます。

ただ、団地のDKは8平方メートルほどと、とても小さな空間でした。欧米の大きな家具は入りません。必要だったのは、日本の狭い部屋に収まる、小ぶりで軽い椅子とテーブルです。

ここに、日本の家具メーカーの出番がありました。1960年代、高度成長とともに「椅子とテーブルの暮らし」が広がり、各地の木工所は、日本の住まいの寸法に合わせた洋家具を次々につくっていきます。ジャパンヴィンテージ家具が、どこか低く、小ぶりなのはこのためです。

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1948〜1970年代民藝という、もうひとつの道

モダンデザインとは別に、もうひとつ大きな流れがありました。柳宗悦(バタフライスツールをデザインした柳宗理の父)が始めた民藝運動です。名もない職人が日々の暮らしのためにつくった道具にこそ美しさがある、という考え方で、家具にも広がりました。

松本の職人たち

長野県の松本は、安土桃山時代から家具がつくられていたと考えられる土地で、大正時代には日本有数の和家具の産地になっていました。ところが戦後、和箪笥の需要は落ち込み、職人たちは仕事を失いかけていました。

1948年、松本の池田三四郎は、京都の相国寺で開かれた日本民芸協会の全国大会で柳宗悦の話を聞き、心を動かされます。和家具の職人の技で、洋家具をつくろう。最初、職人たちは反発しましたが、やがて池田の熱意に動かされていきます。お手本にしたのは、イギリスやアメリカ開拓時代のウィンザーチェアでした。

1952年、東京の白木屋で開かれた松本民芸家具の展示会では、版画家の棟方志功が、英国式のバタフライテーブルとスピンドルチェアのセットを買っていきました。翌1953年には、イギリスの陶芸家バーナード・リーチが松本を訪れ、英国家具のつくり方を職人たちに直接教えています。1976年、「松本家具」は家具の分野で全国で初めて、国の伝統的工芸品に指定されました。

各地の民芸家具

民芸調の家具は、九州や北海道など各地でもつくられました。どっしりとした木組みと、使い込むほど深まる色が魅力です。岩手県奥州市の江刺では、平安時代にさかのぼると伝えられる岩谷堂箪笥が、漆塗りと手の込んだ彫金の金具を受け継いでいます。いま中古で出会う民芸家具の多くは、昭和の後半に、こうした産地でつくられたものです。

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1910〜1960年代ブナの森と曲木

木を蒸して柔らかくし、型に沿わせて曲げる。「曲木」の技術は、1840年ごろにドイツ生まれの家具職人ミヒャエル・トーネットが確立したと言われます。トーネットの「No.14」という椅子は世界中で大量に売れ、カフェの椅子の代名詞になりました。この技術は明治時代に日本に入り、日本の家具メーカーの多くは、この曲木から始まりました。

曲木に向く木は、ブナやナラに限られます。秋田には、白神山地をはじめとするブナの豊かな森がありました。1910年、秋田県湯沢で秋田木工が創業します。無垢材を立体的に曲げる曲木を専門とする、日本では数少ないメーカーです。

見向きもされなかった木

大正時代の飛騨では、ブナは薪や炭、下駄の歯くらいにしか使われない、見向きもされない木でした。1920年、地元の有志が、このブナで曲木の椅子をつくろうと会社を立ち上げます。それが今の飛騨産業です。5年後の1925年には、その曲木椅子が国産の品評会で1等の金牌をとりました。

飛騨の椅子は、海外にも売れていきます。1935年にはアメリカ・ロサンゼルスの家具バイヤーが訪れ、戦後の1949年には木の折りたたみ椅子をアメリカへ輸出しました。1953年には、売上の64%が輸出だったといいます。

「工芸の工業化」

広島では、山中武夫が宮島の木工芸に触れて「木の不思議さ」に魅せられ、難しかった木を曲げる技術を確立しました。1928年に設立した「昭和曲木工場」が、のちのマルニ木工です。掲げたのは「工芸の工業化」。職人の手仕事を分業でつなぎ、良い家具をたくさんの人に届ける。1938年の会社案内によれば、すべての製品に何らかの曲木が使われていたそうです。

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1963〜1968ドイツで見た、北海道の木

1963年、旭川の家具職人・長原實は、市の海外研修制度でヨーロッパに渡り、ドイツの家具工場で3年あまり修業しました。そこで彼は、思いがけないものを目にします。北海道から輸出されたミズナラの木が、ドイツで高級家具に仕立てられ、世界中に売られていたのです。

それなら、北海道で、北海道の木で、世界に通用する家具をつくればいい。帰国した長原は、1968年に旭川で「インテリアセンター」を立ち上げます。これが今のカンディハウス(CONDE HOUSE)です。北海道のナラなど、無垢材を活かした家具づくりは、旭川を日本有数の家具の産地にしていきました。

おわりに

仙台の研究所で、タウトのもとで何度も作り直された試作の椅子。米軍の家族のために、全国の工場がつくった家具。団地の小さなダイニングキッチンに置かれたテーブル。ジャパンヴィンテージ家具の一つひとつには、戦後の日本が自分たちの暮らしを一からつくり直していった時間が、刻まれています。

こうして生まれた名作と、いま中古で出会うメーカーの見分け方は、第3回で紹介します。

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